skip to main |
skip to sidebar
最終的な詳細が発表されていないのだが、表だけ。
チベット仏教の「活仏転生」は、ダライ・ラマやパンチェン・ラマをはじめとするチベット社会の高僧たちが、死後49日以内に生まれ変わるというものだ。この「転生」は、そのままチベット社会の支配権力の問題であるから、その認定を巡っては熾烈な闘いが必須となる。二人のパンチェン・ラマ騒動や、昨年中国政府が発布した <政府の承認なしには転生は許可されない> という条例、対する亡命中のダライ・ラマ14世の「転生拒否」発言などがそれだ。
最上層に君臨するチベット高僧の「転生」問題はともかくも、この芝居はそういった支配者間の過剰政治によって直截に生死を奪われる最下層の阿Qたち、その「転生」をめぐるものになる。
とはいっても、最下層の人間に「転生」などあろうか? いったいだれが処刑にふされた孤独な魂の転生先など探すだろうか。いや、万一だれかが捜索したところで、しかるべき権威によって認定されなければ「転生」は果たされないのだ。
魯迅老師が推量した阿Qの最期を、さらに邪推すればおおむね以下のようなものだろう。
――彼を取り囲む目玉は、すでに彼の言葉を食い尽くし、彼の肉体をかみ砕いた上に、まだ執拗に彼に食らいついてくる。ついにそれらの目玉は一つに繋がって、彼の魂を咬みはじめる。「救命!」と声を出すかわりに、彼の全身全霊はその目玉ともども木っ端微塵に飛び散った。
この最期は、近年私らになんらか関わりのある近隣地域に起こった数多くの「虐殺」の模様でもある。東京、南京、中国全域、朝鮮、台湾、沖縄――私らが「虐殺」された先達を持つのか「虐殺」した先達を持つのかを問わず、あるいは、咬まれた魂なのか咬んだ側の目玉なのかによらず、魂と目玉が咬みあったまま木っ端微塵に飛散したその現場から、私らが発祥あるいは転生したことは間違いないと思われる。ただそれを捜索し現前化させる力量も、それを認定しようとする勇気も持ち合わせていないだけだ。そうであればこそ、「虐殺」はささいな姿となっていくどとなく反復され、可視化できないほどに常態となっている。
タイトルにある「歌仔戯」とは、台湾の俗謡で構成された大衆向け歌劇のことである。日帝統治下にこの名称で呼ばれるようになった。
No comments:
Post a Comment